過去のご挨拶

2017年4月1日 児玉龍彦理事長

ダブルメジャー:シンギュラリティー以後を見据えた生命科学研究、留学提案を歓迎します

 コンピューターの進歩から、チェスや将棋の名人よりもコンピューターアルゴリズムが強くなり、囲碁でも一進一退が続いている。この進歩をもたらしたのはアラン チューリングらのベイズ推計を用いた計算機での予測の考えである。コンピューターはチューリングマシンともいわれるが、「繰り返し推論」をそれこそ、何回でも何百万回(メガ)でも何兆回(テラ)でも何京回(ペタ)でも繰り返せるところに特徴がある。


 医学関係者はフィッシャー統計でのp値によるエビデンスという事を安易に使ってきた(最近の反省はアメリカ統計学会のステートメントを参照 文献1)。歴史的にはベイズ推計の方が古いのだが、フィッシャーはベイズを現実的でないとして激しく攻撃し、「紙と鉛筆で計算できる」レベルに落とし込んだフィッシャー統計をすすめた。ベイズ推計は時々刻々と確率分布が変わることを前提にするので計算が膨大になる。ベイズ推計ではチェスや将棋で相手の指し手が変わるごとに、手の検討をやり直すように推計が変わっていく。


 医学薬学や生命科学は正にベイズ推計の世界である。我々は、人体内のことは知らない。体重でも肝機能でも正規分布にはならない。経験的モデルをもとに、症状をみて、ある「診断」という推測をもとに「治療」を行い、その結果をもとに、次のモデルを立て、診断と治療を試みる。


 コンピューターのアルゴリズムの大きな進化は、脳の6つの階層性など神経生物学のモデルを踏まえつつ、データ解析からの判断に幾つかのレイヤーを想定するディープラーニングによる。人間の判断も幾つかの異なるレイヤーで自動的な判断は積み重ねられ、意識に上ってくるのはその膨大な演算の結果と考えられている(歴史的な展開は文献2を参照)。


 生命科学でのシンギュラリティーの議論は、コンピューターが膨大な演算力をもつ一方、ゲノム解読やイメージング解析のような計測が短時間で膨大なデータを生み出せるようになった技術進歩があり、この技術進歩とコンピューター演算を結びつけると、これまでの人間の判断を上回る正確な判断ができるようになることである。


 ここで生命科学の大きな流れの変化が生まれてくる。これまでは科学の流れは一つのデータの取得をより精密に行うことであった。遺伝子配列の決定が次世代シークエンサーまでいったことや、質量分析による化学物質やたんぱく質の解析の進歩である。しかし、これらはロボットとコンピューターでより加速化され、低コスト化される領域であり、シンギュラリティー以後は機械化される領域である。


 それではシンギュラリティー以後の生命科学はどこに向かうのであろうか。生命はフィードバック制御を基本とする。血糖が上がれば下げる。低血糖になれば上げる。こうして恒常性を維持している。これをいかして糖尿病に対してインスリンの投与やインスリンシグナルの活性化が試みられてきた。だが、生命は進化のなかで制御の仕組みを多重的にしている。血糖を決めるのはインスリンだけではない。インスリンはむしろ、栄養があるときに飢餓にそなえて栄養を貯めるシグナルである。肝臓ではグルコースをグリコーゲンに、脂肪組織では中性脂肪を合成し、筋肉ではたんぱく質合成を促し、貯蔵する。だが、食べ過ぎを基本とする飽食の時代の2型糖尿病では、血液中のインスリンはむしろ高い値を示している。インスリンシグナルが寿命を短縮させるのではという動物実験結果が注目されている(文献3)。高インスリン血症が組織病変を悪化させているのなら、同化のホルモンのインスリンを活性化するのでなく、異化の治療がもとめられる。こうして「糖質制限」や「SGLT2阻害剤」が登場する。


 興味深いのは、従来の糖尿病研究者が「糖尿病=インスリン不足」の単一モデルからこうした新たな考えに反発を覚え極めて否定的に立ち回り、疫学調査の結果(文献4)や社会的な論争で劣勢にみえることである。シンギュラリティー以後の生命科学では、制御のメカニズムが生命の中でバッティングしていることが焦点となる。だが、インスリンが悪玉にもなるでは逆の単純化でしかない。飢餓に対応するシグナルは、飽食の環境下では逆に病状悪化に働く。だが、飽食の時代で本当に重要なのは、飢餓と飽食のシグナルが睡眠と覚醒のように周期的に起こることであろうと考えられている。


 コンピューターの得意な一つのアルゴリズムを徹底的に働かせるのではなく、どのアルゴリズムとどのアルゴリズムがバッティングしているか、複眼的な思考力が求められるのがシンギュラリティー以降の生命科学者、医学薬学者の課題である。そこでは、経験的知識、計測の品質、情報解析の重層的な理解が必須となる。糖尿病はインスリン分泌を研究するだけではわからない。食事の摂取と、体内の脂肪やアミノ酸との中間代謝と、異化、制御の多重的メカニズムを知らなくてはいけない。中間代謝を見るには質量分析が必須であるし、遺伝子の制御は、配列だけではなくヌクレオソームの構造とエピゲノム制御が鍵であり、クライオ電顕や構造生物学、分子動力学の知識が必須になる。生活習慣病はエピゲノム病であり情報科学の理解が必須になる(文献5)。


 こうして、シンギュラリティー以後の複眼的な科学の基礎にはダブルメジャー、トリプルメジャーの素養が必須となってくる。異なる次元、異なる手法を同時に学び、そのバッティングを経験することが必須となってくる。


 アステラス病態代謝研究会の研究助成と留学助成では、もちろんこれまでの単一領域でのより精度を高める研究や、より精緻な論理化を進める研究も歓迎する。だが、今回の公募の特徴として日本の生命科学におけるシンギュラリティー以後を見据えた「少なくともダブルメジャー」な研究や、自分の複眼的な視点の成長のための留学、これまでと異なる分野への進出に関する提案を歓迎したい。


文献1.
アメリカ統計学会のp値についてのステートメント
http://www.amstat.org/asa/files/pdfs/P-ValueStatement.pdf


文献2.
考える脳考えるコンピューター ジェフホーキンス
https://www.amazon.co.jp/考える脳-考えるコンピューター-ジェフ・ホーキンス/dp/4270000600


文献3.
インスリンシグナルと寿命と老化への考察
http://www.med.niigata-u.ac.jp/car/research/pdf/insulin.pdf


文献4.
SGLT2阻害剤の心臓病患者での効果のNEJM論文
http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa1504720#t=article


文献5.
Momoko Horikoshi et al. Genome-wide associations for birth weight and correlations with adult disease. Nature. 2016 Oct 13;538(7624):248-252.


2016年4月1日 児玉龍彦理事長

日本では出来ない、医薬学・生命科学の先端に挑戦する留学を助成します

 アステラス病態代謝研究会は、海外に向かう研究者への助成金を2回にわたって増額し、当初50万円をまず200万円とし、昨年から最大400万円としました。 この狙いは、学生としての留学ではなくプレーヤーとして世界で活躍する研究者の数を増やそうということです。


 その裏には大きな危機感があります。21世紀の生命科学では、シークエンサーによる核酸の配列決定が加速化し続けているのをはじめ、 イメージング、質量分析など計測が急速に進歩しています。臨床情報も、電子化がすすみ、ビッグデータとして多数のあいまいな情報を扱う科学が急速に進んでいます。


 統計学も、従来の母数を固定的にみるフィッシャー統計に変わって、より計算量が膨大でモデルもサンプリングも注意深さを要する、 尤度(または母数)を変数とみるベイズ統計に移行しています。 しかし、我が国の医学界では、Googleやアマゾンのような、ベイズ推計をもとにした情報理論を理解し実装できる人がほとんどいないのが現実です。


 具体例をあげます。我が国が「タンパク質3000」などと結晶化を数やればいいとしている間に、世界は変わってしまいました。 クライオ電子顕微鏡でタンパク質の数万のぼやけたイメージ解析で解像度が2.2Åまで高まり、全く新しい原子レベル構造決定法が生みだされてきました(文献1)。 これは電子顕微鏡のディテクターの改良もあるのですが、決定的なのはベイズ理論を用いたイメージ解析の情報理論の進歩です(文献2)。


 2013年のノーベル賞のカープラスらの分子動力学によるタンパク質の動きのシミュレーションと、今回のクライオ電子顕微鏡による構造決定を結びつければ、 分子標的薬の設計が結晶なしに可能になり、薬作りは激変します。生物学の複合体や超分子構造の研究の壁も破れます。


 一方、クライオ電子顕微鏡でのデータ解析は失敗論文の山でもあります。IP3受容体のクライオ電子顕微鏡による構造決定は当初の3報は4報目で全て否定されました。 イメージ解析の適用の難しさがあります。ベイズ理論を理解していないと、 ハーバード大のグループのクライオ電子顕微鏡論文のように「ノイズからアインシュタインの顔を見る」と痛烈に批判されるものもでています(文献3)。 このヘンダーソンの批判文献は、専門外の方もぜひご一読ください。


 こうした情報科学の進展は、これまでの国策レベルの巨大施設の考え方も変えています。これまでの1,000億円レベルの放射光施設に比べ、 クライオ電子顕微鏡は10億円以下の施設で可能です。分子動力学も専用計算機は「京」のような1,000億円単位でなく10億円程度で、 施設費は百分の一になります。クラウドでの利用など、もっとコストダウンが進むでしょう。


 我が国では、クライオ電子顕微鏡でタンパク質の原子レベルでの解析をおこなう単粒子解析は軌道にのっていません。 我が国で今から、そうした施設を整備するのはもちろんですが、 ケンブリッジでもNIHでもマックスプランクでも、スタンフォードでもクライオ電子顕微鏡をやっている研究室に飛び込んでチャレンジする研究者が今いることが大切です。


 アステラス病態代謝の留学助成はたった10名しか枠がありませんが、200名を超える応募がありました。 しばしば、「近頃の若いものは外国へ行く覇気もない」、ひどい場合には「ウォッシュレットのない国に行きたがらない」というような乱暴な議論がありますが、 そうした議論を一蹴する競争率の高さです。


 私個人の意見としては、この倍率では、日本でも出来る研究は残念ながら後回しです。 また従来の自分の研究室の課題を引っぱっただけのものも優先度が低くなります。 世界の中でトップの、人類の知識の最前線に立つ研究、しかも日本では出来ない研究の応募を優先し、夢を持った研究者の挑戦を応援します。 誤解のないように付け加えますと、当財団の選考委員にはさまざまな領域の現状に詳しい専門家がいますので、 もっと幅広い課題からの応募も、もちろん歓迎で、厳正かつ真剣に審査されます。


 我こそは、と思う研究者は、奮って応募してください。同時に世界の学問の進展を注意深く見つめて、偽物でなく本物を見る目を準備してください。



文献1.
2.2 Å resolution cryo-EM structure of β-galactosidase in complex with a cell-permeant inhibitor.
Bartesaghi A, Subramaniam S. et al.
Science. 2015 Jun 5; 348(6239):1147-51.

文献2.
RELION: implementation of a Bayesian approach to cryo-EM structure determination.
Scheres SH.
J Struct Biol. 2012 Dec;180(3):519-30.

文献3.
Avoiding the pitfalls of single particle cryo-electron microscopy: Einstein from noise.
Henderson R.
Proc Natl Acad Sci U S A. 2013 Nov 5;110(45):18037-41.


2015年4月1日 児玉龍彦理事長

胃がん・肝臓がん・子宮頸がんを慢性感染症の予防・治療で減らす

 今年の医学界の最大の話題は1日1回12週間の服用で、C型肝炎ウィルスが消失するギリアド社のハーボニの登場であろう。 ハーボニは治験でこれまでインターフェロン抵抗性であった患者さんも含めて、90%以上で有効な合剤である。


 最近発表されたがんセンターの柴田先生、東大先端研の油谷先生らによる肝臓がんのゲノム異常の400例以上の解析では、 B型肝炎、C型肝炎の有無にかかわらず共通なのはTERT遺伝子の異常で、それ以外は、多数のばらばらな変異が個々におこっていることが確認された(文献1)。


 TERT遺伝子変異はテロメアを伸張させ、分裂回数を増加させる。次世代シークエンサーでの解析から、 1回の正常な細胞分裂でも1塩基以上に変異が入っており、分裂回数が増えると、がん化する危険性は、ランダムに増えていくという説を裏付けるものとなっている。 結局、慢性の炎症が悪い事になり、共通の治療薬が作り難いため、現実的にはウィルスの除去が最優先になる。


 同じことはヘリコバクター・ピロリ菌による胃がんの発症でも考えられている。 ピロリ菌はCagAというタンパク質を胃壁の細胞に注入することにより、SHP2による増殖シグナルを活性化し、Par1による極性の維持を難しくする(文献2)。 この場合も萎縮性胃炎がおこり、腸上皮化生がおこることが遺伝子変異を増すことになる。ピロリ除菌が鍵になる。 ただし胃がんといってもピロリ菌除菌後の解析でスキルス型や噴門部の胃がんは別のメカニズムで発症するので要注意である。


 同様に、パピローマウィルス感染の蔓延とともに若年化の傾向の著しい子宮頸がんのワクチンによる予防も大切になる。 我が国では、かつては60歳代の病気と思われていた子宮頸がんの患者数が、ついに30歳代でピークを迎えるようになってきた。 そこで推奨された女子中学生へのパピローマウィルス16型、18型への2価ワクチンの接種は、副作用報告とともに急ブレーキがかけられた。 すでに我が国のこどもには16種の病原生物へのワクチンの1種平均3回以上の接種がすすめられており、MMRワクチンの副作用問題以来、議論が多い。 パピローマウィルスについても、40種のタイプの中で、今後でてくるのは男性の尖圭コンジローマの原因となる6型、 11型も含めた9価ワクチンになる見込みであり、2価だけでいいのか、女子生徒だけでいいのか、など緻密な議論も求められる(文献3)。


 C型肝炎ウィルス治療薬のハーボニの薬価問題もある。ハーボニとはPharmasset社の開発したNS5B阻害剤ゾバルディ(文献4)と、 BMS社のNS5A阻害薬790052と構造の類似したレジパスビル(文献5)の合剤であり、ギリアド社は、 ゾバルディの権利を得るためPharmasset社を1兆1千億円で買収している。 ハーボニの薬価は一人一千万円とされ、アメリカでは年2兆円の売上も予測され、あまりの高額に保険会社が難色を示している。


 慢性感染症の予防、治療でがんを減らせる時代がやってきている。 従来より一歩進んで、患者さんやご家族サイドからのメッセージを重視しつつ、基礎科学、創薬科学、臨床研究を結集した科学的研究を進め、 緻密な議論を応援し、さらに難病の克服をめざして行く事に貢献していきたい。



文献1.
Totoki Y,et al. Trans-ancestry mutational landscape of hepatocellular carcinoma genomes. Nat Genet. 2014 Dec;46(12):1267-73.


文献2.
Hatakeyama M.Helicobacter pylori CagA and gastric cancer: a paradigm for hit-and-run carcinogenesis. Cell Host Microbe. 2014 Mar 12;15(3):306-16.


文献3.
Steenbergen RD, et al. Clinical implications of (epi)genetic changes in HPV-induced cervical precancerous lesions. Nat Rev Cancer. 2014 Jun;14(6):395-405.


文献4.
Murakami, E. et al.:Mechanism of activation of PSI-7851and its diastereoisomer PSI-7977. J. Biol Chem., 5:285:34337-34347, 2010.


文献5.
Gao, M. et al.:Chemical genetics strategy identifies an HCV NS5A inhibitor with a potent clinical effect. Nature, 465:96-100, 2010.


2014年4月1日 児玉龍彦理事長

薬つくりをめざす若手研究者を世界に送り出そう

 コンピューターの性能が、年々、倍に高まっていく中で、分子標的薬の設計技術も世界でどんどん進んでいる。 2013年のノーベル化学賞が、マーティン・カープラスら、水にとけたタンパク質の動きを予測し、薬を設計できる技術に与えられた事もあり、 アメリカのシュレジンガー社などのスパコン能力を駆使した分子シミュレーションの会社が、急速に市場を拡大している。 我が国でも、スパコンの京から、富士通の高速科学計算クラウドのような、大規模な演算能力が提供されるようになり、設計のシステムが急速に進歩している。


 ところが、その結果、驚くべき状況が明らかになってきた。 多くの製薬メーカーでは、化合物の合成にかかわる研究者がリストラされ、中国、台湾、韓国などの合成専門メーカーに外注する動きが強まっていることである。 そのため、スーパーコンピューターで設計された分子を合成するのに、自前で作れず、外注に非常に時間がかかり、世界の競争についていけなくなっているのである。


 これは一般的な合成というよりも、より困難な、基本骨格を変えて、新たな触媒や、多くの不斉炭素も含む合成経路を設計し、 イノベーションする研究者が育たなくなっているという深刻な問題である。


 当財団の留学助成を1件50万円から4倍の200万円としたが、医学研究者と比べて、 医薬品を実際に作っていく過程を世界に飛び出して勉強しようという若手の応募が減っていることが懸念されている。


 この悪循環の大きな原因は、「2010年問題」とよばれた、日本発の画期的新薬の減少という深刻な事態が、克服されていないことがある。 各製薬企業は見かけ上の決算はよくなっているが自社開発品が減り、外国企業から権利を買うことに依存し始めている。 しかし、これからのグローバルな競争の中では、薬を作っていく技術全体をコーディネートしていくビジョナリーをどこの国が育てていくかが、大切になっている。 当財団でも、薬つくりをめざす若手を世界に羽ばたかせる方策を専門家に検討していただくこととした。ぜひ、多くの医薬資源の開発や合成を志す若い研究者に、 留学助成に応募していただきたい。


 勇気をもって、困難な薬作りにチャレンジする若手の応募を求めたい。

2013年4月1日 児玉龍彦理事長

グローバルにタフな はつらつとした提案を募集します

 アステラス病態代謝研究会は、藤沢薬品工業創業家の藤沢友吉氏が私財を投じ設立した医薬資源研究所(1946年)と 山之内製薬創業者の山内健二氏の発案でスタートした病態代謝研究会(1969年)とを基礎とし、 医学、薬学、創薬の進歩に貢献することをめざす、歴史と伝統、そして資産がしっかりした研究助成財団である。


 と聞くと、誰から見ても非の打ち所ない、立派な重厚長大なテーマを採択する財団にみられかねない。 ところが不思議なことに、この財団の研究助成の特徴はなんといっても独創的な個人を応援する、ということに尽きている。 受賞者も選考委員も若手が多い。いい研究を考えて助成を受け、結果を出して繰り返し受賞すると、選考委員を頼まれ、 選考委員をやっているうちに教授になられた方も多い。 個人型研究・女性研究者・留学から戻ったばかりの研究者・研究室立ち上げの研究者の支援を重視している。 助成金交付者中および選考委員の中の女性比率も安定的に増加してきている。これは実は前身の2つの財団が、敗戦による混迷のとき、 そして日本がグローバルに飛躍しようとしているとき、日本における科学技術の創造を目指していたという原点に由来している。


 そうしたイノベーションを重視する特徴を、世界経済の停滞と、大震災や原発事故の中で、もっと強くしなさいと 石井康雄評議員会長を中心とするアステラス製薬経営陣の決断により、今回更に支援してくださることになった。 ノーベル賞の山中教授のようなグローバルにタフな研究者を育てて欲しいという期待で、4億円を超えるご寄付を頂いた。


 アステラス病態代謝研究会は、お金にかえられない、もっと大事な、人々の健康や生命を担う医学、薬学、創薬の はつらつとした研究を応援する。今、厳しい経済と世界の動きをみると、我が国でトップというよりは人類の最前線でないと意味がない、 という時代になっている。


 そうした見地から、すでに海外留学助成を1件50万円から200万円に増額し、また、今回の大規模な寄付をうけて、 研究助成を43年ぶりに1件100万円から200万円に倍加させることにした。 医学、薬学、生命科学、創薬科学の領域で研究を更に発展させたいと考えているグローバルにタフな皆様から、 はつらつとした熱意ある研究提案を待っている。

2012年4月1日 児玉龍彦理事長

ヒストンコードを読む

 人体を理解する上で最も大きな謎は、60兆個の細胞が、どのように協調して一つの個人を作っているか、ということである。 その謎を解く鍵がエピゲノムにあることがわかってきて、生命科学は革命的な転換点にたっている。


 ヒトの細胞は30億塩基対のDNAをもつ。そこに2万5千の遺伝子があるが、 その発現の制御の解析から4千程度のsyn-expression clusterという制御のシステムがあると考えられている。


 これらのクラスターは、全ての細胞で働いているわけでなく、200種類といわれる細胞種ごとに特徴的な制御系が働いて、 細胞種特異的な遺伝子制御のパターンを決めている。


 遺伝子の制御系は、様々な刺激、光や熱のような物理的刺激や、酸素や栄養分のような化学的刺激、 ホルモンや接着因子のような生物学的刺激に反応し、遺伝子を働かせたり、サイレンスさせたりしている系である。 この反応の仕方をエピゲノムがきめているということは、エピゲノムは制御の束を選んでいることになる。


 細胞の記憶というのは選択される制御の束にあることになる。 このことを端的に示したのは山中教授の4遺伝子の強制発現でiPS細胞が作れるという発見である。 4つの転写因子の過剰発現で作るコアサーキットが、制御系の束を選び、分化した細胞の記憶をリセットし、 万能細胞をうみだせるのである。


 エピゲノムの本質はヌクレオソームなどゲノム情報を修飾して管理していることになる。 DNAは147塩基対ごとに4種8つのヒストンにまきつきヌクレオソーム構造をとる。 このヒストンのテールのメチル化やアセチル化の修飾によって、ヌクレオソームの性格がきまる。 ヒトゲノムには千万個程度のヌクレオソームがあるので、これが解読できれば、細胞ごとの記憶が解読されていく。


 今、質量分析で、ヒストンのテールの修飾を、包括的に決定していく作業が始まっている。 まずヒストン4では、AspNで切断して23アミノ酸で切り出し、100種類以上のテール修飾が系統的に分析された。 我々も新規酵素でヒストン4および3の系統的解析を始めている。 これまではH3K4(ヒストン39番目のリジンを略した表記、以下同様)、H3K9、H3K27、H4K20など 重要なマークが免疫沈降で個別に分析されていた。これは1つ1つの文字を読むようなものだった。 ところが近年、質量分析の精度の進歩は驚くべきスピードですすみつつありアメリカのThermo社のOrbitrap Eliteなどでは、 MSで質量を、MS/MSで配列を、MS/MS/MSで修飾を読めるまですすんでいる。 質量分析は、文章を読むようなもので、ヒストンコード解読は、画期的なスピードで進む。 これと次世代シークエンサーでの免疫沈降と塩基配列決定を組み合わせる、エピゲノム解読は新しい段階にはいる。 生命科学の謎の生物の記憶システムを解明する手がかりがえられてきている。 2012年は新しいパラダイムの生まれる画期的な年になりそうである。

2011年4月1日 児玉龍彦理事長

多体問題と生命の科学
――チャレンジングでディープ(*)な研究計画を――

 物理学でお互いに相互作用するものが3つ以上あるときに多体問題という。 最も有名なのは太陽と地球が万有引力を及ぼし合う2体問題は、解析的に解けるが、 そこに月がはいると三体問題となり解析的に解けないことが多いことが知られている。


 ヒトゲノムが解かれて、ゲノム創薬ということが言われた。しばしばゲノム配列をもとに、個別化医療という事が言われる。 ゲノム配列をもとに、メガスタディをやれば病態や薬の効果が予測できるとする考え方である。


 しかし、実際にはゲノム配列から病態が簡単に予測できるものではない。ヒポクラテスの昔から、遺伝性の病気は、 詳しく検討されてきて多数のものが知られる。これらはメンデル型の遺伝形式が知られ、詳細に検討されてきた。 しかし、がんや、糖尿病など生活習慣病の多くは、実は多数の因子がかかわり、複雑な病態を形成していることがわかってきた。 遺伝子配列には人ごとに1000塩基に1個ほどの違いがあり、ゲノム全体では300万も違う。


 さらに、DNAからRNAへ転写され、RNAからタンパク質へ翻訳が行われると、構造上の自由度が増え、お互いの相互作用が増えてくる。 DNAからRNAへ、タンパク質へとなるにつれ、1個でメンデル型に症状がでるのでなく、複雑な多体問題にかかわってくるのである。 相互作用をもたらす遺伝子の違いの効果は線形ではなくなり計算できない。


 それでは多数の因子はどのように研究していけばよいのか? 山中伸哉先生のiPS細胞の業績は、そこに果敢にチャレンジした結果である。 ES細胞で、27種の発現上昇している遺伝子を、普通の細胞に導入すると、多分化能をもった細胞を樹立できた。 そこから、数を減らしていって、4個の遺伝子の導入でiPS細胞の樹立に成功した。 ゲノム解読により遺伝子はたくさんあるが有限になったのである。 ひとたび、多数の問題を解く方法が示されると、例えば3種の遺伝子を導入して心臓の幹細胞を樹立する方法が同じように確立された。


 我々の財団ではこうした本質的な問題にいどむ、チャレンジングでディープな研究の計画を応援したいと思っている。 それは基礎にも、臨床にも、創薬の研究にも共通する。


(*)「ディープ」の由来:

ゲノムのシークエンスを膨大にきめると読み間違いが多く、確定するために最低30回読む事にしています。 これを「浅い」(1回だけののシークエンス)に対して、「深い」(deep sequencing)と言います。 山中先生のお仕事の勘所も、27遺伝子をウィルスで発現しえたディープな技術になると思っています。 私のスパコンでの設計も10のマイナス15乗秒ごとの計算を行い、1マイクロ秒まで10の9乗回の計算を行うところが鍵です。 薬のスクリーニングもライブラリーが膨大になっています。こういう膨大な情報と向き合う科学の考え方に挑戦して欲しいのです。

(理事長による補足説明)

2010年4月1日 児玉龍彦理事長

<「量の拡大」でなく「細かくていねいな」研究を支援し高齢化社会を支える
――2010年の公益法人化にあたって――>

 2010年4月1日をもって、病態代謝研究会は、公益財団法人に変わりました。数多い日本の医学薬学生命科学の助成団体の中で、 いち早く総理大臣の認可をうけ、新しい仕組みで世の役に立つ事が求められています。


 2010年は、我々のような医学薬学にかかわるものには特別な意味をもった年です。 それは、日本で生まれたがん、高血圧、免疫、泌尿器、生活習慣病、認知症の画期的な薬の特許が次々と切れ、 それを引き継ぐような新しい治療薬が、我が国から生まれていないという「2010年問題」があるのです。


 ひるがえって我が国の医療の状況をみますと、急速な高齢化にともない、年間の救急車出動回数や死亡者数が急増し、 地域医療の崩壊が危惧されています。高齢者は、短期の一つの疾患ではなく、多数の病気を長期に抱えることが多く、 今までの入院と外来という枠をこえた、認知症や骨、耳や目、排便や排尿、心臓、 呼吸器などの慢性疾患の在宅診療を柱とした対応も求められています。


 10年前、新しいミレニアムはヒトゲノム解読から始まりナノテクと情報科学をあわせ、 生物から膨大な情報量がとれるようになってきました。メガスタディと称される臨床のデータ収集と、 エビデンスといわれるその統計処理がすすんでいます。


 これらもそれなりに役立つ情報をあたえています。 しかし、そのコストと労力に比べて現実の複雑な病態の理解はいま一つの感があります。新しく生まれた公益法人として、 アステラス病態代謝研究会では、高齢者の病態を把握できるような「一つ一つの分子のかたちと、その働く仕組みから、 病気のメカニズムまでを説明していく細かくていねいな」研究を支援し、 画期的な新しい治療薬をうみだし2010年問題に答えていきたいと考えています。 在宅医療や救急医療に役立つ画期的な治療薬の開発につながる研究を支援し、国民の切実な期待に応えたいと願っています。


2008年4月1日 児玉龍彦理事長

<21世紀型の創薬研究奨励をめざす財団へ>

 急速に未曾有の高齢化社会を迎えつつある我国においては、がんや動脈硬化、 アルツハイマー病や骨粗鬆症などさまざまな疾患に画期的な治療薬の開発を望む国民の願いが切実なものとなっております。 こうした中、21世紀に入りヒトゲノム解読とそれに続くエピゲノム解明の進展、 さらに京都大学の山中教授による万能細胞の作出などから創薬の道筋に大きな希望が生まれております。


 一方、トランスレーショナルリサーチとしての創薬は、世界での画期的新薬の承認数が30以下へとむしろ減少しており、 国民の期待に応えるために新たな研究の奨励が必要となっています。この原因は、医薬品の開発候補品の多くが開発途上で、 人体内での有効性を示せなかったり、予期せぬ副作用で脱落することにあります。従来型の医薬品開発では、 98%のプロジェクトが失敗しているという報告もあります。


 このような現状を踏まえ、新たな創薬科学研究の奨励を目指し、私どもは2007年4月に創薬に関する2つの財団、 医薬資源研究振興会と病態代謝研究会の事業を統合し、新たな「病態代謝研究会」としてスタートいたしました。


 医薬資源研究振興会は1946年に、医薬資源に関わる研究を進めるために設立されました。病態代謝研究会は、1969年に、 病態と生体内代謝の研究から治療薬の進歩に貢献することを目的に設立されました。 しかし、従来の基礎から臨床へという一方向型の研究では画期的な創薬を十分に奨励できない限界があり、これを打破するためには、 新たな研究奨励活動が求められています。


 新たな「病態代謝研究会」は基礎科学としての医薬資源ならびに細胞生物学、 応用科学としての病態生理および病態薬理の研究の奨励に加えて、 これら研究と臨床科学を融合させることにより画期的な治療法を早期に生み出し、 それらが速やかに患者さんの手元に届けられるような研究を奨励することを目的としております。 さらに臨床から基礎と応用への新たな課題提起を含むサイクル型の創薬科学研究を奨励し、 国民の期待する画期的な治療薬を生み出す21世紀型の研究を奨励することを目指しております。 さらに臨床から基礎と応用への新たな課題提起を含むサイクル型の創薬科学研究および 国民の期待する画期的な治療薬を生み出す21世紀型の研究の奨励も目指しております。


 当財団の進めようとする研究奨励活動は、今日の日本にとって必要かつ緊要な課題であり、 創薬科学の大きな発展の基礎に必須のものと考えます。


 この活動につきご関係の皆様にご理解いただき、更なるご支援をいただけますよう切にお願い申し上げます。